三春駒
【三春駒】
子宝、子育ての縁起物としてご存知の方も多いのではないでしょうか。
こちらは白ですが黒もあり、そちらのが良く見かけるやもしれません。
たてがみとしっぽは、本物のシュロの樹毛でできています。
色合いも白地に金、赤、青とバランスよくてなんだか
位の高そうなお馬さんに見えるのは気のせいかしら?
【三春駒】は日本三駒のひとつです。
あとのふたつは、 八幡駒(青森県八戸市)、木ノ下駒(宮城県仙台市)です。
いつかはあとのふたつも。。。
【三春駒】の詳しい説明など
平安時代の武官・坂上田村麻呂が、793年に蝦夷征討の際に苦戦していたところ、どこからともなく現れた木馬に助けられたという伝説から生まれた子供の玩具「子育木馬」が発祥とされる。黒色の物と白色の物がある。
もともと三春駒の本当の名前は「高柴木馬(たかしばきんま)」といい、三春張子のことを「高柴張子」と呼んでいた。江戸時代に書かれた由来所には一切「三春駒」という名は使われていない。
また、江戸時代三春藩領は貧しい藩だったが、唯一 野生の馬がたくさんいたため、その野生の馬を良い馬に改良して藩の産業にしていた。その本物の馬につけていた名前が「三春駒」だった。
しかし、時代とともに野生の馬がいなくなり、高柴村でつくられていた「高柴木馬・高柴子育木馬」がいつの間にか「三春駒」と呼ばれるようになってしまい全国に広まった。三春藩のなごりで三春駒・三春張子人形と呼ばれるようになったのは昭和初期になってから。
この民芸品の発祥地は、郡山市西田町(旧三春藩高柴村)にある高柴デコ屋敷である。この発祥地のデコ屋敷で第二次世界大戦以降、ただ一軒木彫りから作り続けているのは「彦治民芸(ひこじみんげい)」のみとなっているため、本物の三春駒はここでしか購入できない。
日本で最初の年賀切手に採用された民芸品(昭和29年・郷土民芸シリーズ)で、逓信総合博物館に寄贈されている。日本三大駒(青森県の八幡馬、宮城県の木下駒、福島県の三春駒)のひとつとしても知られる。
切手に採用された三春駒を製作したのが高柴デコ屋敷「彦治民芸」の9代目当主・橋本彦治(はしもとけんじ)。また、三春駒の白駒は昔からあったわけではなく、この橋本が初めて制作し、地域に広まっていったのである。
子宝、子育ての縁起物の由来
坂上田村麻呂が8世紀の蝦夷征討の時、清水寺の僧・延鎮(円珍とも)が小さい駒の木像を100体作って贈ったところ、戦場で苦戦を強いられていたとき、どこからともなく100人の騎馬隊が現れて、敵を倒し、去っていった。その後、村人がそこで、汗びっしょりで頭を垂れた木彫の駒を見つけ、家に持ち帰った。清水寺の100体の木駒の話を知っていた近所の智者が残りの99体の駒を作って100体としたが、いつの間にかまた1匹が行方知れずになった。今の三春駒はその99匹の子孫たちであり、それで遊ぶと健やかに成長し、子供のない人は日に3粒の大豆をあげると子宝に恵まれると伝えられている。
ともにWikipediaより
ふむふむ、えらい昔に話はさかのぼるのですね。。。
しかし、御利益はありそうなお話ですな!!
郷土玩具好きにはこちらの書籍がおすすめ!!
【三春駒】も載ってるよ!!