福助
【福助】
富山土人形は3度目の登場です。
過去の記事はこちらから。
今回のモチーフは【福助】です。
【福助】は大きな頭の正座した男性で、ちょんまげ頭が特徴らしいですがこちらの人形はちょんまげは立ち上がるほどではありません。。。寝起きかもな??
【福助】は縁起物として広く知られているので、皆さんも1度は見たことあるはず?なモチーフだと思います。
【福助】とは
福助人形(ふくすけにんぎょう)は、幸福を招くとされる縁起人形。正座をした男性で、大きな頭とちょんまげが特徴。頭が大きな人の比喩にも用いられる。
元々は、文化元年頃から江戸で流行した福の神の人形叶福助。願いを叶えるとして茶屋や遊女屋などで祀られた。
叶福助のモデルとなった人物も実在したと言われており、松浦清の『甲子夜話』にも登場する。当時の浮世絵にも叶福助の有掛絵が描かれ、そこには「ふ」のつく縁起物と共に「睦まじう夫婦仲よく見る品は不老富貴に叶う福助」と書かれている。
一説に、享和2年8月(1802年9月)に長寿で死去した摂津国西成郡安部里の佐太郎がモデルである。もともと身長2尺足らずの大頭の身体障害者であったが、近所の笑いものになることを憂いて他行を志し、東海道を下る途中、小田原で香具師にさそわれ、生活の途を得て、鎌倉雪の下で見せ物に出たところ、評判が良く、江戸両国の見せ物にだされた。江戸でも大評判で、不具助をもじった福助の名前を佐太郎に命じたところ、名前が福々しくて縁起がよいと見物は盛況であった。見物人のなかに旗本某の子がいて、両親に遊び相手に福助をとせがんで、旗本某は金30両で香具師から譲り受け、召し抱えた。それから旗本の家は幸運つづきであるのでおおいに寵愛され、旗本の世話で女中の「りさ」と結婚し、永井町で深草焼をはじめ、自分の容姿に模した像をこしらえ売りにだし、その人形が福助の死後に流行したという。
加藤元悦の『我衣』には、「(文化元年・1804年)春の頃より叶福助といふ人形を張抜にせし物大に流行して、一枚絵そのほか種々の物に准へて持運び、後には撫牛の如く蒲団を幾枚も重ね、これを祭れば福祐を増すとて、小き宮に入れて売るものあり」とある。
Wikipedeiaより
なるほど、【叶福助】が正式名称なのか、知らなんだ。
頭の大きな人を【福助】っていうのは初耳ですが、縁起が良いなら悪くないのかもしれないですね~。
自分を含め頭大きいのは脳みそが大きくて(使えこなせれば)頭が良いはず。。。たぶん(笑
歴史があるモチーフかつ現代までつづくモチーフなのは、どことなく愛嬌があるからでしょうか?
富山土人形の復習です。
嘉永年間(1848~54)富山十代藩主前田利保が名古屋の陶工、加藤家の陶器職人であった広瀬秀信を富山に呼び、千歳御殿に窯を築いて千歳窯を作り、次いでその子・安次郎が陶器作りのかたわら天神臥が牛ぎゅうを焼いて献上したのがとやま土人形の始まりです。
当時、城下には土人形屋は数軒ありましたが、広瀬家より技法を学んだ渡辺家(明治3〈1970〉年創業)だけが家業として伝統を守り続けてきました。
しかしながら、渡辺家の3代目信秀氏の後継者がいなかったために、富山市では昭和58(1983)年より渡辺信秀氏を講師として人形づくりの受講生を募り「とやま土人形伝承会」を結成しました。平成9(1997)年信秀氏高齢(83歳)のため、長年守り続けてきた土人形づくりに終止符を打ち、代々受け継がれてきた型・技法全ての仕事を「とやま土人形伝承会」に委ねました。現在は「伝承会」がこの伝承技法を後世に伝えるべく活動を続けております。
富山民族民芸館HPより
歴史あるモチーフと歴史ある土人形のコラボレーション!!
次はどんな【福助】にしようかな~
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